前書 私はジェー・ビー・ゴールドマン氏殺害事件に関する、私の手記を発表するに先立って、私自身を紹介して置きたい。と、いうのは、そうする事が、読者諸氏に対する礼儀であると信ずるからである。私は署名通りの日本名を名乗る、百パーセントの日本人である。アラスカで生れて、合衆国で教育を受けた。西暦千九百二十×年のエール大学の卒業生である。母親は私の小さな時に死んでしまい、父親も私が大学を卒業する前の年に病死してしまった。兄弟も親類もない、一人ぽっちだ。金は少々許り父親が残して置いて呉れたが遊んで食う程もなかったので、学校を出ると直ちにシヤトルの或る輸入商に通信係として勤めた。日本へ来たのは二年前である。
私は、これだけの事を挨拶代りに申述べて置いて、本文にかかりたい。
1 神戸の元居留地附近に、拳銃強盗が出るそうだ、という噂が立った事がある。或る者が、
「ありゃ、君、嘘だぜ」
と、いうかと思えば、他の男は、
「いや、ほんとだ」
と、いう。中には、見て来た様な事をいう人達があって、
「西洋人専門で、立派なプロウニーを持っている」
なんかといい出した。
「併し、ほんとだとすると、誰か被害者が出そうなものだ」
とは、誰もが不審に思っていた事であった。併し、或る人達が、
「いや、拳銃強盗は頭がいいんだ、何時も、神戸へ上陸してくる、メリケンの船乗ばかりを狙っているんだ。彼奴等は拳銃強盗には馴れているから、ピストルを向けられると、すぐに手を上げるんだ、そして、五円や十円の金を盗られたって、入国税位にしか考えていない。だから、警察へなんか、そんなつまらない事を、届け出ないんだ」
なんかと、いっているのを聞くと、それもそうだな、と考えざるを得なかったのである。
この噂はとうとう所轄、×宮警察署の耳に這入った、当局も最初は、
「どうやら、唯単なる噂らしい」
と、考えていた様であるが、ふと、噂のプロウニーに匹敵する拳銃の遺失届が出ているのに気付くと、はっとした。市内、東町六十三番館、ジェー・ビー・ゴールドマン商会主、ジェー・ビー・ゴールドマン氏から、プロウニーの遺失届が出ていたのである。そして、どうやらこの噂は、問題の遺失届が出てから、人々のロに上り出した様である、と。こうした事が判明すると、警察当局も慌て出した。そして先ず第一歩として、噂の真偽だけを確かめるための調査が、相当大袈裟に開始されたのである。併し、皮肉な事にも、当局がそうした調査にかかると同時に、この噂が、唯単なる噂でなかった事を立派に証明するに足る事件が突発した。で、この事件というのが、私が今、記述しつつあるゴールドマン氏殺害事件なのである。
私は読者諸氏に事件の顛末をお知らせする一方法とし、当時の新聞記事二三を拝借する。
× × 「兇悪なる拳銃強盗現る。
「先頃、元居留地附近に拳銃強盗現る、との噂があって、事実とも、唯単なる噂とも言われていたが、これを事実として裏書するに足る犯罪が昨夜、最も兇悪な方法で遂行された。
「昨、十四日、午後九時三十五分、市内北野町三丁目、パシフィック・ガレージの自動車、兵一二一二五号、運転手、刑部政太郎(25)が乗客を第二突堤迄送っての帰途、元居留地、東町通りを山手に向って疾走していると、北町角迄来た時に、突然、タイヤがパンクした。運転手は自動車を急停車して、タイヤを探べて見たが、何の変りもない。
『不思議な事だ』
と、思いながら、ふと北町通りの、煉瓦塀にそった、歩道を見ると、誰か倒れている。
近寄って抱き起すと、思いがけない事にも、毎朝自分の自動車で会社迄送っている、ゴールドマン氏だ、左胸部に傷を負って即死している。運転手は驚いた。タイヤがパンクしたと思ったのは正しくピストルの銃声であり、その一発にゴールドマン氏は胸部を射抜かれて、即死したものに相違ない。彼はこう考えた、そして、死体はその儘にして置き、自分の自動車を飛ばせて、×宮署に急を報じた。
「×宮署では、時を移さず、×宮警察署長、××検事、××刑事等の一行で、現場を検証した。その結果、被害者は、運転手の申立通り市内元居留地、東町六十三番館、ジェー・ビー・ゴールドマン商会主、ゴールドマン氏と判明した。致命傷は、左胸部に受けた、唯一発の貫通銃創であり、氏は何等抵抗を試みた形跡がなかった。併し内ポケットに入れている筈の札入が紛失しており、それには何時もの様に百二三十円の現金が入っていた、と考えられる。
「ゴールドマン氏の人格に付いては、とやかくの噂があったが、別に怨恨による殺害とも考えられず、現金が紛失している点から推察して、強盗説と考えるのが一番妥当の様である。併して、若し、この説を正しいものとすれば、先頃、この辺りで噂の高かった、拳銃強盗と結び付けて考えるのが、最も穏当であり、警案当局もこうした方面に捜査主力を置いているものの様である。
「なお、本社の仄聞する所によると、程へて、現場の歩道際にある下水道ロから、犯行に使用された、とおぼしきプロウニーが発見された。弾丸は一発だけ発射されているのであるが、此処に見逃してならない事は、若し此の一発が被害者の生命を奪ったものであるとすれば、前記の強盗説も俄かに信ぜられなくなる。と、いうのは、この拳銃は、番号によって、被害者が護身用として、携帯を許可されているものであり、氏が嘗て遺失届を出していたものであるが、一説には、その後、問題の拳銃は自宅で発見された、併し、氏は何故かその旨を警察へは届出なかった、というのである。従って、彼が所有していた筈の拳銃で、胸部を射たれて死人でいたとすれば、『犯人』は彼自身であるまいか。そして、拳銃は、彼が倒れた刹那、彼の手を離れて、偶然にも、歩道際にある下水道ロに落ち込んだのではあるまいか。
「こう考えると、自殺説にも、全然板拠のない事ではない」
× × 一般の新聞はこんな事を書いていたのであるが、中には、自殺説を全然否定し去ったのがあって、
「ゴールドマン氏は自殺したのであろう、と、いう説があるが、誰が自殺をする場合に、ああした場所を選ぶであろうか、又、ピストルで自殺するのに、左胸部を撃つ、なんかとは考えられない。若しああした場所及び状態で自殺する人があるとすれば、それはゴールドマン氏が最初の人であろう」
と、書いていた英字新聞があったのである。
× × 又、或る新聞は、事件の発見者である、パシフィック・ガレージの運転手に嫌疑を掛け、
1、彼の申立に幾分、不審な点のある事。
2、彼が毎朝氏を会社迄送っていた事。
3、従って、氏が何時も、相当額の小遣銭を所持していたことを知っていた筈である事。
4、兇行に用いた、ピストルは氏が前に、自動車の内に置き忘れたものであり、それを運転手が密かに所持していた、と考えられる事。
と、いう様に、相当、筋道をたてて、かの運転手に疑いを懸けていたのである。以上は、種々な新聞記事を綜合したものであり、事件を種々な角度から見た、正しい記録と考えられるものであるが、同事件が発生した前後の模様に付て、被害者の秘書であった私が、出来るだけ許しく記述してみようと思うのである。
2 ジェー・ビー・ゴールドマン氏殺害事件のあった日−即ち、西暦千九百三十×年×月×日−は私達、阿弗利加方面を対手に貿易をしている会社に取っては、大変に忙しい一日であった。と、いうのは、其翌日の午前十時には、阿弗利加航路、ポート・エリザベス丸の郵便〆切があって、遅くとも、郵便〆切の一時間前には、輸出為替を取組む為に、送状や船荷証券、その他の関係書類を銀行に届けねばならなかったからである。
私達は、翌る朝出勤すれば直ちに、総ての書類を銀行へ持参出来る様に、遅くなっても、仕事を全部片付けて置こう、と一生懸命に働いていた。
閉館時間の六時が過ぎる頃から、仕事の済んだ者は一人帰り、二人帰りして、時計が九時を指した頃には、結局、主人のゴールドマン氏と、手紙と為替の係りである私、そして、廊下を隔て向いの部屋にいる、送状係りの南村、の三人になってしまった。
向いの部屋から、南村が送状を打っている、タイプライターの音がせわしく聞えていた。私は仕事に一段落が付いたので、一服しながら、南村から新しく廻って来る送状を待っていた。主人のゴールドマン氏も、私から持って行く、為替、その他の書類を、署名する為に、私の部屋に隣り合った、彼の私室で、待ち受けていたのである。私は九時十九分を指した柱時計をほんやり眺めながら、煙の輪を吹いていた。と、突然、ゴールドマン氏が帰る支度をして、彼の部屋から出て来た。
「おや、もうお帰りなんですか」
と、私が声をかけると、
「ああ、労《つか》れたから帰るよ。署名するものはまだ沢山あるのかい」
と、聞いたので、
「南村君が今打ってるのだけ残ってるんですが、そう沢山もありますまい」
「そうかい、じゃ、済まないが、今晩中に書類を全部纏めておいて呉れ。明日の朝九時前に来て署名するから」
「承知しました」
私が、こう答えると、ゴールドマン氏は部屋を出て、廊下を隔てた、南村の部屋へ這入って行った。私は彼を見送る積りで、続いて、向いの部屋へ這入って行くと、南村君は充血した目を上げて、ゴールドマン氏に、
「もうお帰りですか」
といった。彼は、
「ああ、帰るよ。明日の朝、早く来て署名するから、今日中にやって置いて呉れ」
と、答えて、
「で、送状はどれ位残っているんだ」
と、尋ねた。
「もう八通ですが、相当長いのばかしなんです」
こういって、南村は私の方を向き、
「どうも、待たせて済みませんね」
と、気の毒そうにいった。私は、
「いいや、かまわないよ」
と、答えた。ゴールドマン氏は私達の会話が終ると、
「じゃ、頼むよ、さようなら」
と、部屋を出かけた。
私はその時に、ふと思い出した事があった、それは阿弗利加の或る新しい市場から、代理店にして欲しい、との申込があって、その返事を書くのを、すっかり忘れていたのである。
向うからは、
(近頃、当地でも日本商品の需要が激増した。御店は信用ある店だと当地の銀行から聞いているので、代理店にして頂きたい)
と、いって来ていたのである。こうした手紙はよく受取るのであるが、返事としては、
A、支払条件
B、買入口銭、等
に付て書送らねばならないのである。私は、部屋を出かけてゴールドマン氏に、この手紙の話をし、
「あの手紙の返事ですが、明日はとても忙しいと思いますから、今から直ぐに返事を書いて置きます」
というと、
「ああ、そうして置いて呉れ」
「で、支払条件はどういってやりましょう。三十日払手形にしましょうか」
「いや、それでは危険だ、一覧払手形で支払って欲しい、といって呉れ」
「で、ロ銭は何時もの通りですね」
「そうだね。織物類二パーセント、一般雑貨五パーセント」
「承知しました」
私が、こういうと、
「じゃ、頼むよ、おやすみ」
と、いって、ゴールドマン氏は帰って行った。私は南村に、
「君、急ぐ事はないぜ、ゆっくりとやればいい。僕はどうせ、家に帰ったって、別に用事は無いんだから」
と、いって、自分の部屋に帰って行ったのだ。
3 私は、自分の部屋に帰ると、直ちに、ゴールドマン氏に言付かった通り、代理店申込に対する返事を書き始めた。尤も、書くといっても、勿論、タイプライターで打つのであるし、別にむつかしい手紙でもないので、下書もせず、何時もの様に、考えながら、タイプライターで打っていたのである。
ゴールドマン氏が店を出てから、二十分か三十分余りも経ったかと思う頃だった。
私は、相当に長くなった、この手紙を打ち終っていた。と、突然、静まりかえった、会社の表通りに、自動車の急停車の音が聞えて、二三の人達が会社の中へ這入って来る気配がした。
(誰だろう)
と、思う間に、無遠慮な靴音が段々と近づいて、私の部屋の前で止った。そして、扉にノックが聞えた。
「お這入り」
私は、すぐに、こう答えた。併し、こうした言葉が私のロから出るか出ない内に、扉は外から開かれて、背広姿の二人が部屋の中へ這入って来た。
「失礼します」
先頭に立った一人は、口を切った。
「私は、こんな者ですが、しはらくお邪魔致します」
彼が、こういって、差出した名刺を見ると、
(神戸市、×宮警察署、The "Thirteenth Degree" Department,刑事、土岐三郎)
と、印刷してあった。私は、警察の人と知ると、安心して、
「ああそうですか、失礼しました。さあ、どうぞ」と二人に椅子を勧めながらも、名刺に書かれた"Thirteenth Degree"の文字を解し兼ねて、頭をヒネった。読者諸氏も御存じの様に、"Third Degree"というのは、亜米利加の警察で工夫されたもので、正しい日本訳があるかどうか知らないが、或る犯罪が冒されて、証拠の不充分な場合に、有力な嫌疑者を捕えて、徐々に、訊問を進めて行く探偵法なのである。私は"Fourth Degree","Fifth Degree"が引続いて考案された、と聞いていた。併し、この"Thirteenth Degree"は余りにも意外だったのである。
土岐刑事は、私の腹の中を見抜いた様に微笑んで、
「Thirteenth Degreeが御不審なんじゃありませんか」
と、落ち付き払って、
「では、用件にかかる前に、その説明を致しましょうか」
と、人懐ッこい面持で、語り出したのである−。
「此の文字にはどうも適訳がありませんので、英語のままで書いてるんですが、強いて訳すれば、『探偵法第十三号』、とでも、いいますかね。二三ケ月前の紐育探偵週報に発表されていたものなんですが、解りやすく言えば、今、誰か殺されている、と届出がありますね。すると、現場検証なんかは、係の者に委せておいてこの"Thirteenth Degree" Departmentのものが、早速と別行動を始めるんです。で、この別行動というのは、殺人事件の場合ですと、被害者に関係のある人物を、出来るだけ多く、事件の直後[#「直後」に傍点]に訪問して、証拠の蒐集に力《つと》めるんです−勿論、Aは誰、Bは誰、といった風に手別けして、訪問する訳なんですがね」
土岐刑事は、こういって、煙草を取り出した。私がマッチをすって、火を付けると、
「有難う」
と、丁寧に礼をいいながら、言葉を続けた。
「この組織は、まだ、米国でも、とやかくの議論がある様ですが、私達の警察で、早速とこれを採用する事になりましてね。で、いわばこの事件が、瀬蹈といった訳なんです」
彼は、「この事件が」と、言葉に力を入れて、私の顔を見た。
(この事件が!)
私はロの中で繰返した。
(変だ)
と、思って彼の顔を見た。一瞬、不気味な沈黙が続いた。南村の打つタイプライターの音も聞えなかった。
多分、不意の闖入者を疑って、耳を欹てていたに相違ない。
「で、その事件とお仰有いますのは?」
と、私はロを切った。土岐刑事は私の顔を正面に見ながら、
「ゴールドマン氏が、今しがた、誰かに、殺害されたのです」
と、何げなくいって、煙草を大きく吸った。
私は飛上る程、驚いて、
「え、そりゃ、ほんとうですか」
と、叫ぶ様にいった。刑事は頷いた。併し、私は心の中で、
(ゴールドマン氏が帰ってから、まだ二三十分しか経たない。それだのに、彼が殺されて、その犯人を探すために、もう刑事がここにいる。そんな事が有り得るだろうか)
と、考えてみた。併し、つい先程、説明された、探偵法第十三号を考える、
(有り得る)
と、断定せざるを得なかった。
私の、顔の筋の動きを、じっと見守っていた、土岐刑事は、煙草の灰を落すと、少し調子を変えて、
「今、あなたの外に、誰がいられますか」
と私に尋ねた。
「一人だけいます。送状係りの人なんですが」
「そうですか。では、済みませんが、その方をお呼び下さいませんか。あなたとお二人に、ゴールドマン氏が店を出られた前後の事情に付て、少し許りお聞きしたいのですが」
「承知しました」
私が、こういって、廊下に出ると、南村は、私が思った通り、自分の部屋の扉を少しあけて、耳を欹てて私達の会話を聞いていた。
私は、彼の傍へよると、小さな声で、
「聞いていたか」
「聞いてましたよ、私は、また、無頼漢でも闖入して来たんじゃないかと、吃驚してね」
「ゴールドマン氏が殺害された、というんだ」
「私は吃焦りしてしまいましたよ」
「済まないが、来て呉れ、何か聞きたい事があるんだそうだ」
こういって、南村を連れて、再び、土岐刑事と彼の助手らしい男との前に現れた。
約一時間もの間、彼は色々な事を私と南村に尋ねた。
就中《とりわけ》、ゴールドマン氏が店を出る前後の模様に付て、彼の質問は詳細を極めた。
併し、私達二人は、ここに記して来た以上の事は、何も語り得なかったのである。訊問が終ると、彼等二人はゴールドマン氏の部屋、私の部屋、南村が働いている部屋等を、家宅捜索の形式で、捜査し始めた。
4 ゴールドマン氏の事件があってから丁度二週間目の事だった。土岐刑事から、電話があって、
「あの事件に付いてですが、新聞はもう他殺説を否定していますし警察の方でも自殺説を称える人が沢山出来て来たのですが、私は飽く迄、他殺説を固持しています。付きましては、もう一度だけ、あなたにお伺いしたい事がありますので、恐縮ですが、署迄御出向下さいませんか」
と、いって来たのである。私は、
「承知致しました、早速御伺い致します」
と、答えて、直ちに、彼を訪ねて行った。
土岐刑事の部屋へ這入って行くと、
「やあ、どうも、御苦労さんです」
と、愛想よく、机を隔てて彼の向いにある椅子を勧めてくれた。そして、私が腰を下すと、すぐさま、
「早速と問題にかかりますが、あの事件に付いて、も少しお伺いしたい事があるのと、一寸お詫びして置きたい事がありましてね」
と、いった。そして、言葉を続けて、
「ゴールドマン氏事件の直後、私と私の助手とが御店へ伺った事が御座いますが、勿論、御記憶でしょうね」
「はい、憶えております」
「色々と御話を承りまして、後に、ゴールドマン氏の部屋や、あなたの部屋を探べさせて頂きましたね」
「はあ」
「実は、あの時に、あなたの机の引出から、こっそりと失敬して来たものがあるんですが、何だか御存じでしょうか」
彼はこんな事をいい出した。私はそんな事は夢にも知らなかったので、
「さあ、気付きませんでしたが、何ですか知ら」
と、尋ねると、彼は笑いながら、机の引出から原稿用紙を五六十枚綴ったものを取り出して、
「これなんですよ。無断で読ませて頂きましたが、どうもゴールドマン氏をモデルにされた創作じゃないか、と思うんです」
「え、ゴールドマン氏をモデルに?」
「何でも、ドッぺルゲングがテーマになっていますが」
彼が、こういったので、私はそれが何の原稿であるか思い出した。それは、事実、ゴールドマン氏をモデルにしたものであった。併しモデルとはいうものの、氏が過去に犯した一犯罪と、氏の性質をその儘借りたはかりで、テーマとしてはドッぺルゲングを使ったのである。
読者諸氏も御存じの様に、ドッぺルゲングの原語は独逸語で、Doppelgangerであり、井上の英和大字典では、Double-gangerとして、精霊(ヒトダマ)、離魂、という様な日本訳が付いている。何でも、自分自身の眼に見えるんだそうで、この自分の第二の姿、即ち、ドッぺルゲングを見ると、その本人は死ぬる、という言い伝えがあるんだそうである。
私はこのドッぺルゲングを使って、或る小説を書いていたのであるが、まだ書き終らぬ中に、同じドッぺルゲングを取入れた新作を読んだのである、私は、しまった、と思った。先を越されたのである。今更、こんなのを発表しても、真似事だ、と思われては癪だ、とこう思った、そして、その儘、机の引出にほうり込んでいたのである。これが土岐刑事に見付かったのである。私は彼にこう語った。すると、
「そうですか。で、あなたは、あの小説の筋を憶えていられますか」
と、尋ねた。
「もう、一年余りになりますから、どんな風に書いたか忘れましたが、筋だけでしたら記憶しています」
「そうですか、では、恐れ入りますが、粗筋で結構ですから、お聞かせ下さいませんか」
私は、何故こんな事を聞くんだろう、と思った。併し、
「承知しました」
と、答えて、簡単に筋を述べたのである−。(永らく、神戸の元居留地で、輸出貿易をやっている外人があった。彼は過去に人一人を殺して、金を奪った経歴の所有者である。それは、彼が青雲の志を抱いて、日本へ渡って来る船の中での事件であった。彼は現在では、一流貿易商館の主人である。
財産も名誉も出来ている。併し、流石に傲慢不遜な彼も、寄る年波と共に過去に起した罪悪のために思い悩んでいる。
(突如、彼の目にドッぺルゲングが見え始める。おや、ドッぺルゲングだ、と最初彼は驚愕した。だが、神を信じない彼にこうしたものの信ぜられる理由はなかった。彼は自分のドッぺルゲングの『正体』を知ろう、と力める。
(正体が終に判る。驚いた事にも、それは、自分が数十年前に殺した男の息子であった。その男が、彼のドッぺルゲングを装っていたのだ。
(『馬鹿め、俺が自分のドッぺルゲングを恐れたりする、と思うのか。こんなものを見れは精神が錯乱して、自殺でもする、と思っているんだろう。馬鹿め、そんな手に乗るものか。俺はもう此の世に何の望みもない体だ。俺は、お前が俺を殺した様に見せかけて、死んでやる。そうなれば、お前は俺を殺した嫌疑で逮捕される、そして、絞首台へ送られるだろう。俺は地獄から貴様を笑ってやる」
(彼は、こう独白して、自殺する。しかし、まだ何の用意−彼の死を他殺と見せるための−も出来ていない内に! 彼はピストルを気狂いの様に振り廻していて、過って、自分自身の頭を射抜くのだ。
(彼は『ドッぺルゲング』を見て発狂したのであった)
5 私が語り終ると、土岐刑事は、
「有難う」
と、私を正面に見た。そして、
「あの、最後のあたりですが、他殺の様に見せる自殺、云々とありますが、此の部分は全然あなたが、創作されたものでしょうか。といいますと、変に聞えますが、私は、若しかすると、ゴールドマン氏は、あなたがお書きになった小説と同じ様に、何かの目的があって他殺と見える方法で自殺されたんじゃあるまいか。とも考えるんです」
「私は、そうした理由があったか、どうか、存じません。併し、御参考迄に申上げて置きますが、ゴールドマン氏は過去に於て、一英国人を偽って、彼の財産を横領しております。
それが為めに、その英国人は、彼を怨みながら、毒を仰いで淋しく死んで行きました。
こうした理由の為に、その男の息子は、彼を父の仇として、狙っていたか知れません。私は、こうした事実を小説に創作したばかりなのです」
私は、自分自身にも判る程、興奮していた。
土岐刑事は、私の顔を見つめていた。彼は□を切って、
「では、今お話になった、ゴールドマン氏が過去に犯した犯罪云々ですが、あなたはこの話をゴールドマン氏から御聞きになったのでしょうか。尤も、本人のロからこんな事はいわないと思うのですが」
「いいえ、あの人のロから聞いたのではありません」
「では、どうした方面からお聞きになったのでしょうか。若し、お差支えが御座いませんでしたら、お話下さい」
「お語致しましょう」
私はこういって声を落した。
「ゴールドマン氏が間接に殺した英国人は、私の父親なのです」
私が、こういうと、土岐刑事は大変に驚いた。と、同時に、一寸変な顔をした。そして、
「でも、あなたは日本人でしょう」
と、いった。
「そうです、私は純粋の日本人です。私を生んでくれた両親も武士の血を受け継いだ者でした。併し、国籍の上では英国人だったのです」
土岐刑事は興味深げに、私の言葉を聞いていた。私は続けた。
「私の父母はアラスカ土着の民族、サイワシでした。バンクーバーから余り遠くもない処−詳しくいいますと、太平洋沿岸にある島の町、シトカ、に近い一孤島の小さな村に住んでいました。父はその村の酋長をしていました。この辺りは、勿論、英領でありますので、私達は国籍の上では、英国人に相違なかったのです。併し、父は常々自分達は純粋の日本人だ、立派な武士の子孫である、といって、日本刀や系図を見せてくれました。そして、自分達は今迄、外国人の血が混ぜられぬ様に、注意深く結婚して来た、お前は大きくなれば祖先の地である日本へ帰れ。といっていました。
「私は子供の内は、父のこうした話をお伽噺を聞く様に、聞いていました。教育は合衆国で受けまして、エール大学を卒業しました。父の言葉は何時も忘れませんでした。そして、高等教育を受ける内に、地理的、歴史的に考えましても、父の言葉は事実に相違ない、と解って来ました。といいますのは、御存じの様に、あの辺りは黒潮が流れています。従って、潮流の関係から考えましても、長い年代の間に、幾十、幾百艘の、日本の難破船が、日本人を乗せたまま、漂着したであろうとは、当然考えられるのであります。
「で、これ以上の話は事件に関係もありませんから省略致しますがこの私の父が住んでいた島へ、もう十年にもなりますがゴールドマン氏が海産物を買入れに来た事がありました。その時に、甘言を以て私の父を騙し、全財産を横領したのです。父はそれを苦にして、先程もお話しました様に、毒を仰いで自殺したのです」
私が語り終ると、土岐刑事は、私を同情の眼で見守りながらも、流石に自分の職務を忘れずに、
「では、率直にお聞きしますが、あなたは、何時かはお父さんの無念を晴らすお積りで、ゴールドマン氏の会社に勤めていられたのでしょうか」
と、突込んだ質問をした。
「いいえそうじゃありません、私は偶然にゴールドマン氏の会社へ勤める様になったのです」
「では、彼を一見して、自分の父の仇だ、とお判りになりましたか」
「いいえ、私は前に氏を見た事がありませんでしたし、ゴールドマンというのは、彼が日本へ来てから勝手に付けた名前なんです。私が知っていた事は、唯、あれ程な年配の猶太人《ジュー》で、コーフマンという名だ、という事でした。併し、しばらく勤めている内に彼の本名も古い記録で判りましたし、私の父の仇−少し穏当を欠きますが−に相違ない、という事も、彼の色々な話を綜合して、解りました」
「では、あなたは、機会があれば父の仇を討とう、とお考えになりましたか」
「考えました」
私はこう、はっきりと答えた。土岐刑事の顔は流石に緊張した。併し、落付いて、
「そうでしょう、そして、あなたは巧妙にゴールドマン氏を殺害されたのですね」
私には彼の言葉が、余りにも意外だった。彼は言葉を続けた。
「私は種々な情況証拠を集めました。そして、その結果あなたが氏を殺害せられたに相違ない、と推定しました。併し、あなたがどんな理由で殺害せられたか、想像も付かなかったのです。だが、今のお話で総てが判りました」
土岐刑事はこんな事をいった。私は、自分の顔色がさっと変ったのを、自分自身で感じた。
「私は天地神明に誓って申します。私は決して、ゴールドマン氏を殺害したのではありません」
と、いった。刑事は口許に微笑を浮べていた様子だった。
「では、もう一度、あの夜、ゴールドマン氏が、店を出て行かれた前後の事情に付いて、お尋ねしたいと思います。お答え下さい」
と、いった。
「承知致しました」
と、私は答えた。
それから、私達二人の間には、次の様な会話が交されたのだ。
6 「最初ゴールドマン氏が、帰る仕度をして、彼の部屋から出て来られたのは何時頃でした」
「九時十五分でした」
「何故、そんなに時間をはっきり、憶えていますか」
「私はその時、偶然にも、時計を見ていたのです」
「では、ゴールドマン氏が店を出られたのは何時頃でした」
「その時は、時計を見ていませんでしたので、確かな時刻は存じません、併し、九時十五分に部屋から出て来られまして、私との会話が約五分間、送状係りの南村君との会話が同じく五分、最後の、私との会話も約五分としますと、ゴールドマン氏が店を出られたのは九時三十分頃だと思います」
「では、氏が会社を出られたのを九時半としましょう。次に御店から現場迄の距離ですが、ゴールドマン氏の足で歩かれて、何分程かかるでしょうか」
「あの方は外国人にしては、足の遅い方でしたから、四五分かかるだろうと思います」
「では、ゴールドマン氏が現場へ現れた時間は、九時三十四五分の訳ですね。それでパシフィック・ガレージの運転手の申立てている、ピストルの音を聞いた時間、即ち、九時三十五分、とほぼ合います。今こうした時間を表にしてみましょう。1、九時十五分−九時三十分…ゴールドマン氏とあなた、南村君、再びあなたとの会話。
2、九時三十分…ゴールドマン氏退社。
3、九時三十五分…ゴールドマン氏射殺さる。
ここ迄は、今お聞きした時間ですが、これに警察の記録を加えて見ます。
4、九時三十五分…運転手パンクと思って、自動車を停止させる。
5、九時三十五分−九時三十八分…自動車点検。
6、九時三十八分−九時四十分…ゴールドマン氏の死体発見。
7、九時四十分…自動車の運転手、警察へ出発。
8、九時四十四分…運転手警察へ出頭。
9、九時五十五分…私と助手が御店訪問。こうなるのですが、右の表の中で、2の時間から9迄の、あなたの現場不在証明が、どうも明白でない、と私は考えるのです」
「明白でない、と仰有いますのは?」
「記録によりますと、この時間中、即ち、九時三十分から九時五十五分迄、二十五分の間、あなたはタイプライターを打っていられた事になっています」
「その通りです」
「併し、誰かそれを証明出来ますか」
「南村君が証明出来ると思います」
「駄目です。南村君とあなたの部屋は廊下を隔てています。それに南村君自身もタイプライターを打っていたのです。従って、彼自身の、機械の音にさえぎられて、あなたのタイプライターの音は、あの人の耳に這入っていない筈です。尤も、南村君のタイプライターの音も、あなたの耳には聞えていない、と思うのですが−」
「御尤です。では、先程の時間表の9の時間に、あなたが助手の方と、私の部屋へ来られました時に、私のタイプライターに打ちさした、レター・ぺ−バーが挿入されていたのを御覧下さった事と存じます」
「見せて頂きました。そして、無断で複写紙の写しを一枚頂いて来ました」
「結構です。あの手紙の文字は幾語あったか、数えて下さったでしょうか」
「数えて見ました。七百五十八語ありました」
「私は一分間に百二十語の記録を持っています。併し、この記録は競技会で作ったものでありまして、会社で商用文を印写する場合にはこれ程スピードを出せません。
まして、あの場合、原稿なしで、頭の中で考えながら打ったのでありますから、一分間五十語余りのものでしょう。で、二十五分の中から、七八分間を印字にかかる迄の用意、その他に費したとすれば残りは十七八分。
この時間に、一分間五十語ずつ印字した、としますと、八百五十語ですから、これで、私の現場不在証明は立派に出来ると存じます」
「よく判りました。併し、こんな風に疑えないでしょうか−。あなたがアリバイを造るために、前以て、ああした手紙を用意されていた、と」
「お疑いになるのは御自由ですが、記録ででも御覧になる様に、あれはゴールドマン氏がいわれた通りの事を書いたものです」
「併し、言われた通り、と仰有るのは、唯、
1、支払条件
2、ロ銭
に関する点じゃないのですか」
「そうです」
「そうすれば、四五通変った手紙、即ち、一覧払、三十日払の支払条件を書いたもの、高い口銭、安い口銭を書いたものと、四五通を前以て用意して置けば十分じゃありませんか。あなたは、こうした準備を整えて、ゴールドマン氏が店を出る前に、わざと、送状係りの南村君を前にして、彼から、支払条件と口銭率との指図を受けた、そして、氏が店を出ると、直ちに自分の部屋へかえって、用意しておいた四五通の手紙の内で、指図通りに書かれたものを取出して、タイプライターに差込み、残りの三四通は丸めて、灰皿の中で焼いてしまった。南村君は自分の部屋で一生懸命に送状をタイプライターで打っていたので、小さな物音は聞えなかった。あなたは足音を忍ばせて、表へ出て、ゴールドマン氏の後を追った。そして、現場で氏に追付いて、自分は、お前が間接に殺した、アラスカの酋長の息子だ。父の復讐をする、といって射殺された」
「成程、名推論です。では、兇器のピストルは、ゴールドマン氏のものを前から、私が隠していた、と仰有るんですね」
「その通りです」
「そうですか、では、先程仰せになりました様に、四五通の手紙を予め印字して置いた証拠が御座いますかしら」
「あります。一応は、あなたがいわれました様に、私達が御店へ向いました時に、タイプライターに差込んでありましたが、他の三通か四通、即ち、ゴールドマン氏の指図に相違しているために、不用になったものは、丸めて、灰皿の中で、燃してありました。御存じの様に、書類を焼捨てられる時は、灰をよく揉んで、粉にして置かないと何が書いてあったか、発見出来る場合があります」
「しかし、若し、私がこういいましたら、何と仰有います。確かにゴールドマン氏の指図と異なった三四通の手紙は、以前から打っていましたし、焼捨てもしました。併し、それは、唯、南村君から廻ってくる送状を待っている間に、面白半分に、又は他の理由のために印字をしたもので、あなたが初見になった、タイプライターに差込まれていたものは、事実、ゴールドマン氏が店を出られてから打ったものである、と…」
「そう仰有ると、私はあなたの弁明を反駁する何の証拠も持っておりません。では、この問題はしばらくおきまして、一寸お尋ね致しますが、あなたが今、仰有った手紙−即ち、前述の表の2から9迄の間に打たれた手紙−別の言葉でいいますと、あなたの現場不在証明である、あの手紙−を打っていられた間に何か変った事がありませんでしたでしょうか。例えば、鼠が出て来た、とか、何か物音がしたとか、又は電気の光が瞬いた、とか。何でもいいですが、ほんの一寸した事でも、何か変った事が起りはしなかったでしょうか」
「いいえ、別に何も変った事はなかったと思いますが」
「そうですか、併し、くどい様ですが、今もお聞きしました様に、鼠でも出て来なかったでしょうか」
「出て来たかも知れません。が、私は一心にタイプライターを打っていましたから…」
「そうですね、出ていたとしても、お気付きになっていないか知れませんね。では、何か物音でも致しませんでしたか」
「その御質問に対しても、前と同じ様に申さねばなりません。何しろ、タイプライターを打っておりますと、鍵がルーラーに当る物音で、少々の音は消されてしまいます」
「そうでしょう。では、電気が瞬きはしませんでしたでしょうか」
「いいえ、そんな事はありませんでした」
「確かにありませんでしたか」
「確かに…」
「変な質問かも知れませんが、この点だけをどうして、そうはっきりと、お答え出来ます」
「私は一心に手紙を打っていましたので、鼠の出て来た事や、少々の物音は聞き洩したかも知れません、併し、電気が瞬いたりする様な事がありますと、いくら私が一生懸命にタイプライターを打っていましても、決して、気付かぬ筈はないのであります。と、いいますのは、御覧になった事と存じますが、私の使用していたタイプライターは『電気タイプライター』であります。普通のタイプライターは御存じの様に鍵を打つ、指の力で動くのであります。従って鍵を叩[#「叩」に傍点]かねばなりませんが、電気のものですと鍵に強く触[#「触」に傍点]れるだけでいいのでありまして、そうする事によって、電流が通じ、電気のカで印字されるのであります。こうした訳でありますので、停電があったり、電気が瞬いたりする様な事がありますと、その瞬間機械が動かなくなります。ですから、私が気付かぬ訳は決してないのであります」
土岐刑事は莞爾した、そして静かに、
「とうとう、かかりましたね」
と、いった。
(あっ)
と、私は心の中で叫んだ。彼は続けた、
「電気は二三度瞬いたのですよ、送状係りの南村君もそういってますがね。あなたは電気タイプライターを使用されていたのに、それに気付かれなかった、とは変ですね」
私は、
(しまった)
と、思った。身体の血潮が一度足の方へ降りて行くのを感じた。顔は土色に変っていたに相違ない。私は、何をするともなく、ふらふらと椅子から立上った。が、意気地なく、又、べたべたと坐ってしまった。
× × 私はここ迄書いて来て、ふと、こんな事を考えた−。
(若し、自分が今、何かの理由で、この手記を中断すべく余儀なくされた、と仮定する−例えば、心臓麻痺等に依る、予期せぬ、突然の死といった理由のために−。すると、読者諸氏は、この手記はこれで終だ、とお考えになる、従って、ゴールドマン氏殺害犯人は私である、と御推断になる事だろう)−と。
併し、読者諸氏よ、私の手記はまだ終っていないのである。私は続ける。
7 土岐刑事は、私を見守っていたが、突如、
「あっはっは−」
と、哄笑した。私には余りにも意外だった。と、いうのは、私は当然、
(どうだ、恐れ入っただろう。僕は君を、ゴールドマン氏殺害犯人として、逮捕する)
と、いう、彼の言葉を予期していたからである。
私は、あの夜、総ての準備を調え、ゴールドマン氏を殺害すべく密かに彼の後を追った。これは、土岐刑事の推理通り、事実である。併し、私は天地神明に誓う、ゴールドマン氏は、私の手によって殺害されたのではないのだ。彼は自殺したのかも知れない。が、何れにせよ、氏が自殺したという事が明白になるか、又は、他殺とすれば犯人が出現せない以上、私が彼を殺した、と考えられても仕方がない。そう考えられるに十分な情況証拠は、土岐刑事によって集められていたのだ。
(では、自分は絞首台に送られるのか?)
こうした考えが、突如、私の脳裏に閃めいたのだ。それが為に、土岐刑事が、
(とうとう罠にかかりましたね)
と、いった瞬間、思わず立上って、また、意気地なく、べたべたと椅子の上へ坐ってしまったのだ。ゴールドマン氏が店を出ると、私はすぐに送状係りの南村君がいる部屋を出た。そして、自分の部屋に帰ると、土岐刑事が推理された様に、ゴールドマン氏の指図通りに印字されている手紙を取り出して、タイプライターに差込んだ。不要になったものは丸めて灰皿の中で火を付けた。南村君の打つタイプライターの音が、静まった店中に響いていた。私は、そっと表に出た。亜米利加から持って帰った拳銃を、ポケットの内で握っていた。私はゴールドマン氏に追縋り、名乗りを上げて、射殺する積りだった。会社を出て二三十米も駆けた時に、突如、拳銃の響きが四隣の静寂を破った。私は驚いて立止った、併し、変な予感を感じて、走った。確か、この辺りだ、と思って、北町通りに出て、ふと見ると、人が倒れている。私は一目見ると、ゴールドマン氏と判った−。自分が今一足早ければ、私自身の手によって、こうした有様になっているだろう、ゴールドマン氏だ。私が、感慨無量、といった様子で、死体の傍に立っていると、東町通りを、山の手に向って、自動車のヘッドライトが近づいて来た。人に見付かれば自分に嫌疑が懸る。咄嗟にこう思って、裏町通りを廻って、一目散に会社へ走って帰った。
以上が、私の、この事件に関係した、総てである。私は詳細を土岐刑事に語った。
彼は微笑みながら、こういった。
「有難う、それで総てが明白になりました」
そして、言葉を続けて、
「ゴールドマン氏殺害犯人はパシフィック・ガレージの運転手、刑部政太郎なんですよ。拳銃強盗の噂の主であり、ゴールドマン氏を殺害した犯人ですが、あなたにとっては大恩人ですね。若し、あの男が氏を殺していなければ、あなたが、当然、不倶戴天の父の仇という訳で、あの夜、氏を射殺されているでしょうし、そうすると、まさか死刑にもなりますまいが、幾年かはビッグ・ハウスに行かなくっちゃなりますまいからね」
と、いった。そして、人懐っこい微笑を顔に浮べながら、事件の全貌を物語ってくれたのである−。
土岐刑事は語った。
「先ず、順序として、ゴールドマン氏が提出した、ピストルの遺失届から、お話しましょう。大分、前の事でした、此方の警察でピストルの『戸籍調べ』をした事がありました。
ゴールドマン氏の所へは私がお伺いしたのですが、氏は、
『お国に住まわせて頂いてますと、護身用のピストルなんか必要じゃ御座いませんね』
と、いって、
『近い内に、署の方へ持参しますから、いい様に処分して下さい』
と、頼んだものですよ。私達の方にしたって、結構な事ですから、
『そうですか、それでは、何時でも構いませんから、お店迄持って来て置いて下さい、頂きに参りましょう』
と、いって別れたのでした。処が、それから二三日経って、氏が顔色を変えて出頭し、
『ピストルを遺失しました』
と、いうのです。氏は、
『確かに、朝、宅を出る時に持って出て、自動車に乗ったのですが、ピストルがないのに気が付いたのは昼前なので、果して、自動車の内へ置き忘れたのか、会社の中へ持って這入った後に、紛失したのか、どうも憶えない』
というのです。で、私が、
『その自動車というのは、何処のだか判っていますか』
と、聞きますと、
『はい、毎朝、宅から会社へ乗る、パシフィック・ガレージの自動車で、運転手も何時もと同じ男でした』
と、いうのです。何しろ、失くした物がピストルなので、種々、捜査したのですが、どうも、行方が判らなかったのです。処が、今になって考えますと、あのピストルは、やはり、自動車の中に、置き忘れられていたのですね。それを、運転手の刑部が隠していたのです。
「次は、あの拳銃強盗の噂なんですが、これは唯、単なる噂でなく、事実二回、噂通り、元居留地の真中で行われたのです。犯人は、この運転手の刑部なのです。ゴールドマン氏が、自動車内に置き忘れたピストルを隠している内にやったのですよ。所が、偶然にも、前後二回とも、この拳銃強盗に襲われたのは、ダンス・ホール帰りの与太者だったので、被害者は何れも、届出なかったのです。尤も、取られた金は二三円の少額だったからでしょうが、変に、こんな事を届け出て色々な事を聞かれている内には、自分の足もとに火の付いて来る様な連中だったのです。これが、拳銃強盗の噂が唯、人のロのみに上って、被害者の表われなかった原因ですね。
「あのガレージの主人もいっていた事なんですが、あの運転手の刑部が、拳銃強盗をやる為に、わざわざ外出していたのなら、ガレージの者だって、変に思ったかも知れないのですね。ところが、後程になって解った事なんですが、客を自動車で、元居留地や突堤迄送って行った帰りに、自動車を一寸物蔭に止めて、仕事をやり、すぐに又、自分の自動車でガレージヘ帰っていたのですね。だから、誰も不審に思わなかったのですよ。
「刑部もこの辺りで止めておけばよかったのですよ。何も別段、金に困った訳でもありませんし、立派な職業もあったのですからね。所が、変な事に興味を持ち出した−と、しか考えられないのですが−彼は、又やったのですね。そして、この時の被害者がゴールドマン氏だったのです。
「あの夜、刑部は客を第二突堤迄送って行ったんだそうですが、その帰途、遊園地に沿った東町通りを走っていて、ふと、今晩もやってやろう、と思ったんだそうです。で気付くと、歩道を一外人が山手に向って歩いている。この外人がゴールドマン氏だったのですが、店を出て、何時ものように、山手に向って歩いていた訳なんですよ。刑部は、この外人を自動車で追越して、北町へ廻り、自動車を止めたのです。そして、東町の北町角で、氏を待ち受けて、角を曲って来た所で、
(ホールド・アップ、生命か金か)
と、やったのですね、ところが、その声に気付いたのか、顔が見えたのか、ゴールドマン氏は、
(ああ、君は)
と、叫んだのです。刑部は驚いた、といってましたよ。ゴールドマン氏と知らなかった訳なんですね。それで、
(ええい、しまった、殺してしまえ)
と、一発発射してしまったのです。ゴールドマン氏は、御存じの様に、左胸部を射抜かれて、崩れるように倒れたのです。そこで、在金を、と思って、服に手をかけた時に、あなたの足音を聞いたのですよ。刑部は、
(しまった)
と、思ったそうです。自分を追って来たに相違ない、このピストルを持っていると言抜けが出来ないと思って、死体の側へ投げたんだそうですが、それが、歩道際の下水ロに、はまり込んだのですね。
「刑部が走って、逃げ様としたが、あなたの足音が、もうすでに近過ぎて逃げる間がなかったのです。それで、走って気付かれるより物蔭に隠れた方がいい、と咄嗟に考えて、物蔭に身をひそめた。するとあなたは走って来た。併し、ゴールドマン氏を抱き起しもせずじっと眺めていた。刑部は変に思ったそうですよ。その時に、あなたも先程仰有った様に、東町通りを自動車が一台山手に向って走ったそうですね。それに驚いて、あなたは、死体を其儘にして警察とは反対の方向へ、駆け出した。そして、闇の中に消え去った。
刑部は、
(さては、あの男、掛り合いになるのを恐れて、警察へ届けずに、逃げたな)
と、思ったそうです。
「あなたを驚かせた自動車は、何も気付かずに、山手の方に走り去ったのですが、刑部はあなたが現場を去られると、大胆にも、再びゴールドマン氏に近寄って、現金在中の札入を抜き取ったのですね。そして、自分の自動車を飛ばせて、新聞にも、当時報道されていました様に、知らぬ顔で、警察へ届けて出たのですよ。私は最初から運転手の刑部が怪しいと睨みましてね、何の証拠もなかったのですが、例のThird Degreeてので旨く自白させたのです。併し、私は何故、あなたがああした現場不在証明を造っていられるか判断に苦しんだのですよ。それで、御足労を願って、総てを証明して頂いた訳なのです」
土岐刑事は語り終った、そして、言葉の調子を変えて、こんな事をいったのである。
「所で、このThirteenth Degreeですが、あなたはどうお考えになります。第一回の試験では成功だった、と思われませんか、少なくとも、あなたと私とを親友にさせた、という点だけでも−」<作者附記> 此のThirteenth Degreeですが、これは作者の造り事でありまして、私が初めの方に書きました“Detectives' Weekly”と云った様なものが、ほんとに、亜米利加にでもありましたら、一つ論文でも書いて見ようか、と思っています。亜米利加には警察だって愉快な人が多いですから、「こいつはいい」と、いってくれるかも知れませんからね。